教育トーク : 「英語教育の開拓者に訊く」シリーズ 第1回 AI時代の到来が外国語教育に与える影響(後編)
最終更新日:2023年1月30日
プロフィール
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学習院大学 文学部 英語英米文化学科 教授 冨田 祐一
・略歴 学歴: 早稲田大学(教育学部)卒業、上越教育大学大学院修了 職歴: 都立高校英語教師(9年)、福島大学教育学部助教授(11年)、大東文化大学環境創造学部教授(11年)、マンチェスター大学(英国)講師(2年)、ナザルバエフ大学(カザフスタン)講師(2年)、学習院大学文学部教授(7年) ・英語教育に関する取り組み 1991年: 『NHKテレビのえいごリアン』の番組編成委員として「国際理解の一環としての小学校英語活動」のための番組作りにかかわった。 1995年:福島大学にて、日本で初めて「ディスレクシアの子供たち」の英語教育相談室を開設した。 1996年日本で初めて「インターネットと英語教育」に関する論文を発表した。 2005年『NHKのラジオ基礎英語1』の講師として、日本で初めて「国際語としての英語」を導入した。 ・趣味や特技 両親がアイススケートのコーチだったことがあって、小学生の頃まではスピードスケートを専門的にやっていました。中学校と高校ではバスケットボールとテニス部に所属していました。現在の趣味は水彩画で、外に出て景色を描くことが好きです。最近はケーキ作りに凝っていて、機会があれば家族や職場の同僚にケーキを楽しんでもらっています。 ・最近の関心事 関心をもっていることはたくさんありますが、「英語教育に関する事」としては、2つあります。 1つ目は、英語は「勉強するもの」ではなく「使うもの」であると考える「21世紀型の英語教育」です。最近のテクノロジーの発達に強い関心をもっていて、ICTを有効活用することで、「『英語は勉強する対象ではなく使う道具なのだ』と学習者が実感できる英語教育」の方法を、日々考えています。 2つ目は「英語教育学の若い研究者を育成すること」です。ゼミでは「しっかりした調査方法を身につけ、調査結果から得られるデータに基づいて、説得力のある議論ができる学生」を育てるための様々な活動を行っています。
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こども教育宝仙大学・青山学院大学 五十嵐美加
2007年~和歌山信愛中学校・高等学校、2012年~慶應義塾大学社会学研究科修士課程、2014年~東京大学大学院教育学研究科博士課程、2020年~東洋英和女学院大学教職・実習センターを経て、現在、こども教育宝仙大学(実践英語担当)、青山学院大学(心理学応用演習担当)兼任。 修士課程在学中、英国オックスフォード大学への留学経験有り。
AIの発達により、翻訳アプリの機能や翻訳サイトのサービスが随分向上してきています。AI時代が到来し、世間では外国語学習の必要性に疑問を持つ声もよく聞かれます。
実際、英語がほとんどできなくても、翻訳ソフトを駆使して、海外との取引によって事業を成功させている人もいます。
このような時代にあって、英語教師の役割や英語学習の様相も随分と変化しつつあります。AI技術の発展によって外国語教育はいかに変化してきたのでしょうか、そして、今後どのような在り方が求められるのでしょうか。
「AI時代の到来が外国語教育に与える影響」について、学習院大学文学部英語英米文化学科の冨田祐一教授にお話を伺いました。仕事上で英語が必要になったら、機械に翻訳させればいい。では、我々が英語などの外国語を学ぶ意義とは。後編では、中編に引き続き、AI時代における外国語教育の意義について、いよいよ核心に迫ります。
AI時代における外国語教育は「異文化間コミュニケーション能力」の育成を重視すべき
(五十嵐)ITが発達すると、どんなに難しい英語でも、簡単に翻訳できるようになるので、英語を学ぶ意味って0になるのではないか、という意見も世間の中ではよく聞かれます。それと関連して、外国語教育においては、外国語の習熟よりもむしろ、文化理解の方が重要になるという変化があるという意見もあります。いかがでしょうか。
(冨田)確実に20年後にはAIは、今よりもはるかに発達しているはずです。そうすると、「英語教育って何のためにあるのか?」という根源的な問いが大きな意味をもってくるでしょう。
今までは、英語教師が、子ども達や生徒たちから「先生、そもそも、英語を勉強する必要って、受験以外にあるんですか?」と質問された時には、「海外旅行の時に英語が使えなかったら困るだろう?」とか「外国の人があなたに道案内を求めてきたら、英語で道を教えてあげられるじゃない。」などと答えてきたわけですが、これからはそんな答えは通用しなくなります。「先生、でもね、翻訳アプリを使えば、そんなこと、問題なくできますよ。」と言われてしまうからです。
たとえば電卓は、30年くらい前までは驚くほど高額なものでしたが、今では100円ショップで買えます。翻訳機器や翻訳アプリも、ほぼ間違いなく、確実に価格が低くなるでしょうし、今でも、Wifiが使える環境なら「無料」で使えます。そのような時代になった今、「英語教育って何のためにやるの?」という「問い」は、英語教師にとって、ますます「答えることが難しい問い」になることでしょう。
つまり、これからの学校教育の場でこれからも「英語を教える」のであれば、少なくとも「翻訳機器や翻訳アプリではできないこと」を「外国語教育の新しい意義」として、明確に学習者に示す必要があると思います。
この点については、様々な考え方があることでしょうが、私の場合には、「翻訳機器や翻訳アプリではできないこと」の中で「学校教育における外国語教育が提供すべき教育的価値」として、「異文化間コミュニケーション能力」があると考えています。
なぜなら、異文化間コミュニケーションの能力とは、「生身の人間と人間の関わり合い」に関係する能力だからです。たしかに、翻訳機器や翻訳アプリを使えば、「ある言語の表現」を「別の言語の表現」に変換することはできますが、「人間同士の交流や相互理解」のためには、ほとんど役に立ちません。私は、そうした「異なる言語・文化をもつ人間同士のかかわり合い」に関係する「教育的価値」が、これからの時代における外国語教育にとって、非常に重要な意味をもつに違いないと考えています。
例えば、「異言語・異文化」をもつ人々が挨拶をする時、翻訳機器を使えば「挨拶」をし合うことは簡単です。しかし、そこから先の、深いレベルの「人間と人間の相互理解」や「交流」の段階に進むと、文化、歴史、思想といった「言語以外の多様な要素」の相互理解が必要になります。「多様で複雑な要素」がかかわる「異文化間コミュニケーション能力の教育」は、今後の外国語教育の柱として、重要な意味をもってくるに違いありません。
これからの時代の英語教育の方向性を考える上で参考になる「動機づけ研究」
外国語教育の世界では、1970年代にGardner & Lambert (1972)が、外国語の学習を促進する「動機づけ(motivation)」の研究を行い、「統合的動機付け(integrative motivation)」と「道具的動機づけ(instrumental motivation)」という2つの動機づけを提案したことを皮切りに、今日までの約50年間にわたって、たくさんの「動機づけ」の研究が行われてきています。私は、この「動機づけ」の研究が示している研究結果は、これからのAI時代の英語教育の方向性を考える上で重要な示唆を提供してくれていると考えています。
たとえば、「母語以外の言語を使う人」との「商談」ができるような「外国語能力」を身につけたいと思う人は、「商談できること」を最終的なゴールとして設定しているため、外国語(の能力)を「(目的を達成のための)道具」だと考えています。このような人がもっている「動機づけ」が「道具的動機づけ」です。
そのような外国語を「道具」として使いたいと望む人達にとって、翻訳機器や翻訳アプリは、ものすごく役に立つものであることは言うまでありません。そのことは、現在社会で行われている「国際的な商談」で、翻訳機器や翻訳アプリが大活躍していることを見れば明らかです。
しかしながら、他方の「統合的な動機づけ」については、翻訳機器や翻訳アプリが同じように役に立つか?と言えば、必ずしもそうとは言えません。たとえば、ある人が「アメリカ人みたいになりたい」と思ったとします。そうした感情は「憧れ」と呼ばれますが、そうした人間の感情に関わるような要素については、翻訳機器や翻訳アプリが手助けすることができないからです。
外国語を身につけたいと思う人の中には、「~に憧れる」「~と親しくなりたい」という気持ちで、外国語をいっしょうけんめい勉強する人達がいます。BTSが大好きな人が韓国語を身につけたい、という気持ちですね。そういう人達は(言い方を換えれば)「誰かと繋がりたい」「誰かと関わりあいたい」「誰かと同じ言語・文化を共有したい」という感情に駆られて外国語を学びたいと思います。
そうした動機づけが「統合的な動機づけ」なわけですが、これからの時代の外国語教育にとって、この「統合的な動機づけ」は、非常に重要な意味をもつだろうと思います。なぜなら、「統合的な動機づけ」を促進するためには、翻訳機器や翻訳アプリではなく、「生身の人間」の「外国語教師」の存在が不可欠だからです。
現在の動機づけ研究の第一人者であるドルニェイ(Dörnyei)は、最近、第二言語理想自己(Ideal L2 Self: 第二言語を使ってどんな人間になりたいのか)が第二言語能力の発達に強く関与していると言っています。こうした「動機づけ研究」の成果や動向は、今後の日本の英語教師の皆さんには、ぜひ注目していただきたいと思います。
英語教師は、これからのAI全盛期の時代の中で、いったいどうしたら、学習者の「統合的動機づけ」を刺激し、促進し、育成することができるのか?そんな課題が目の前にあるように思います。さらなる議論を進めて行きたいですね。
Zoltán Dörnyei ・ Ema Ushioda (編) Motivation, Language Identity and the L2 Self
(参照:https://www.amazon.co.jp/Motivation-Language-Identity-Acquisition-English-ebook/dp/B01NAZHHA0)
これからの時代の英語教育で育成する「論理的思考」について
(五十嵐)外国語を学習することで、普段使っている母語を論理的に分析するきっかけになるということを強調する方もいらっしゃると思いますが、冨田先生は、その点については、どのように考えていますか。
(冨田)私が尊敬する大津由紀雄先生(慶應義塾大学名誉教授・関西大学客員教授)などは、「母語と外国語」を比較検討することを通して、論理的なものの考え方を会得できると主張し、外国語を学ぶことの大切な目的の一つに論理的思考があると言われていますね。
私もそういう考え方には大いに賛成ですし、外国語教育を行う際の重要な目的の一つだと思いますし、「言語的認識能力」または「メタ言語能力」を発達させるためには「外国語」は大いに役立つとも思っています。
ただし、同時に、現在、外国語教育の世界で人々の関心を集めている(前述の)Plurilingualism (複言語主義)と、大津先生のおっしゃっている「メタ言語能力」を対比した場合、どちらが「これからの時代に必要か?」を考えると、私には、複言語主義の考え方のほうが重要に思えます。
たとえば(複言語主義と強く関係している)言語教育政策に(主に欧州で広がっている)「3つの言語」を学ぶことを奨励する「三言語政策(trilingual policy)」があります。この考え方は、3つ以上の言語を学ぶことによって、複数の言語を比較対照することができるようになり、結果として、言語の価値を正しく認識できるようになる、という考え方に基づいています。
大津先生が主張されている「母語 vs外国語」という「二項対立的考え方」と「複言語主義」の決定的な違いは、大津先生が「母語」に執着しているのに対して、「複言語主義」は、「(3つ以上の)複数の言語を使うこと」を重視している点にあります。
私は、大津先生のように「母語」にこだわりすぎることについては、賛成することができません。なぜなら、「母語重視主義」を、極度に推し進めてしまうと、結果として「日本語もどんな言語よりも大事」とか「日本文化はどんな文化よりも大事」といった、母語偏重主義や母国偏重主義を芽生えさせてしまう危険性があるからです。
また、日本のような状況で「日本語 vs 英語」といった対立的な比較を強調してしまうと、「外国語=英語」といった「誤った認識」を学習者がもってしまう可能性が出てくるので注意すべきです。前述の三言語教育政策が、(2つではなく)3つ以上の言語を教えることの意義を重視しているのも、そうした「誤解」を学習者にもたせないようにするためです。
私の「言語に関する基本的スタンス」を簡単にまとめると、次の2つになります。
(1) 人間という生物が生得的にもっている言語能力は神秘的なほど美しい構造をしており、あらゆる言語には、等しく、素晴らしい価値がある。
(2) 言語がもたらす文化的価値は人間にとって極めて重要であり、あらゆる文化には、等しく、素晴らしい価値がある。
そのような考え方に基づいて、「世界中に存在するあらゆる言語の価値は等しく、素晴らしい」と考えているため、「日本語(だけ)に価値がある」といった考え方には、賛成できません。我々のような「日本語母語話者」は、たまたま日本社会に生まれ、日本語を話すように育っただけで、それは「偶然のなせる業」にすぎないわけですから。
その意味では、(母語を含めた)あらゆる言語を平等にとらえ、できる限り多くの(=最低3つ以上の)言語の教育を受けることの価値を尊重する「複言語主義」や「三言語政策」に魅力を感じています。
最近は、オンラインのアプリを使えば、世界のたくさんの言語を学習することができるようになっているので、英語以外の言語の学習もかなりしやすくなっています。私の英語の授業では、自由課題として「多言語学習アプリDuolingo (原則として無料)」の活用を与えていて、(英語以外の)外国語をたくさん学習した学生には、ボーナスポイントを与えています。
さて、いろいろな方面に話が行ってしまったので、ここで「論理的思考と外国語学習」のことに話を戻して、具体的に「論理的思考と外国語学習」について考えていることをまとめると、以下のようになります。
<論理的思考と外国語学習>
地球上のあらゆる言語の価値を平等に認めた上で、複数の言語を知り、複数の言語を学び、複数の言語を使えるようになることで、人間の「論理的思考能力」が鍛えられる。ただし、外国語学習によって論理的思考を高める場合には、「母語+英語」といった「一つの外国語」だけを学習するだけでなく、できれば2つ以上の外国語を学習することが望ましい。
(五十嵐)大津先生も、決して「母語偏重」といった学術的立場ではないと思いますが、英語や外国語を詰め込む前に、直感のきく母語を大切に、ということは一貫しておっしゃっていますね。大津先生も、以前から日本にも複言語主義を導入するべきであるというご発言をなさっています。例えば、ひつじ書房から出版されている「英語だけの外国語教育は失敗する—複言語主義のすすめ」を読むとよくわかります。
画像引用:Amazon書籍情報
(五十嵐)複言語主義が日本にもしっかり定着する日がくればいいのですが。バイリンガルの話が出ましたが、本当に50:50のバランスで使いこなせている、という人は少なくて、大坂なおみさんのように偏りがあるケースが多いですよね。確かに、両方使える大坂なおみさんに母語がないかと言ったら、そうではなく、おそらく英語が母語になるのでしょうが、そういう場合には、優位な言語を「第1言語」としてとらえることになるのでしょうか。
(冨田)大坂なおみさんの例はとても面白いし、検討する価値があると思いますね。彼女は、英語と日本語を使えるわけですが、比較的(または圧倒的)に英語の運用能力のほうが高いことは誰の目にも明らかです。
しかし、彼女の言語能力について注目すべきことは、彼女がもっている二つの言語の内の(比較的)弱い方の日本語の能力についても、充分にコミュニケーションをとることができるレベルには達しているという点です。複言語主義は、そうした(いわば)アンバランスな言語能力を肯定的にとらえていて、必要に応じて、能力に応じて、複言語話者が、自由に複数の言語を使うことを推奨しています。
複言語話者の中には、ほぼ完全に2つの言語を母語として生活している人もいて、そういう人は「完全なバイリンガル」と呼ばれることもあります。しかし、大坂さんのように、使うことができる「複数の言語」の能力の間に「差がある」人もいるわけで、2つの言語のバランスについては多様なパターンがあっていいし、自然なことです。
したがって、彼女のような(複数の言語能力に差がある)複言語話者に「日本人なんだから、日本語をしっかり話せるべきだ」といった批判をすることは、まったく的はずれだということを、認識しておくべきですね。
現在の日本社会においては、いわゆる「日本語のみ」の人がたくさんいて、全人口のおそらく95%以上を占めていると思いますが、その状況は50年後にはだいぶ変化している可能性があります。
日本社会における「複言語話者」の数は、多くなることはあっても、少なくなることはないでしょう。そして、日本においても、ヨーロッパほどではないにしても、「複言語話者がめずらしくない時代」を迎える可能性もあります。
そのような新しい時代を前にした今、我々外国語教師は、この「複言語話者」をどのようにとらえるのか?英語教育が目指すのはどのような「複言語話者」なのか?といったことを、検討していく必要があるように思っています。
これからの「AI時代の英語教育」を考える上で大切なこと
(五十嵐)最後に、一言、これからのAI時代の英語教育のあり方を考える上で、今日触れていただいたことの他に何か大切だと思われることがあれば、お聞かせいただけますか?
(冨田)最後に申し上げることとして、次の2点だけ加えさせていただきたいと思います。
(1) これからの教師には「テクノロジーの発達」を的確に理解し、教育のために有効に使えるようになる必要がある。
(2) 「テクノロジー」は、教育的目的を達成するための「道具」にすぎない。「新しいテクノロジーを使うこと」で、どんな「目的」を果たすのか、が重要である。
たとえば、先日、大学生の通信機器の利用に関する簡単な調査を行ったところ、大学生が「Facebookをほとんど使っていない」ということが分かったんです。代わりに学生がよく使っているのは、インスタグラムとTwitterでした。また、大半の学生が「メールを使っていない」ということも分かりました。家族や友人との連絡は、ほとんど全てLINEで行っていました。私が学生あてにメールを送っても、学生の反応がにぶいことは感じていたのですが、その理由が、今回の調査で分かりました。学生は私からのメールなど読んでいないんですね。(笑)
つまり、この調査から分かったことは、私はすでに現在の大学生のコミュニケーションツールの利用習慣に「追いついていない」ということでした。このことは、私にとっては、ちょっとした驚きでしたが、「より使いやすいテクノロジー」が現れると、学生はかなりの速さで「新しいテクノロジーに乗り換える」ということが、よく分かりました。
AIやICTに関係するテクノロジーの進歩は、これからは、間違いなく、さらに早い速度で進行し続けることでしょう。そうだとすると、こうした「テクノロジーの変化の速度」に、「英語教師はどのようにして追いついていくか?」という点については、もっと真剣に検討する必要があるように思います。最も基本的な方法は、「教師一人一人が努力する」ということになるでしょうが、個人的努力だけでは、これからのテクノロジーの発達の速度に追いつけないように思います。
だからと言って、たとえば教育委員会などが提供している「講習会」も、決定的な助にはならないでしょう。(20世紀型の)トップダウン式の講習会は、新しいテクノロジーを使う技術を身に着ける方法としては、あまり効果的ではないからです。
これからの時代の教師にとって一番有効な方法は、おそらくネットワーク上の「草の根的情報共有」だと思います。その意味では、まずは教師本人が、新しい時代に生きるための情報収集能力をもつ必要がある、ということになるのだと思います。
そして、先程申し上げた2点目についてですが、これは、改めて言うまでもないことですが、Ai や ICTに関係する新しいテクノロジーを「いったい何のために使うのか?」という「目的意識」にかかわることです。
新しいテクノロジーを使ったとしても、それを使う目的がなんであるかが明確になっていなければ、そのテクノロジーを使用する意味が分かりません。たとえば、「授業で翻訳アプリを使用する」という時、その目的は何なのか?ということですね。単に学生が(英語の)情報を収集するためなのか?その情報を使って自分の考えをまとめて発表することを目指すのか?その英語の情報を示す英語の文章の中の「文法構造」や「語彙」を学習させるのか?といったことが、明確になっていなければ、翻訳アプリを使うことの教育的意味も分かりません。
当然のことですが、「新しいテクノロジー」を使った新しい「英語教育の目的」については、まだまだ議論が不足しています。これからは、そうした「新しい時代」の英語教育の目的論と方法論についての活発な議論や検討を進めて行く必要がありますね。
(五十嵐)そうですね。冨田先生が普段なさっているように、翻訳アプリや翻訳ソフトだけでは完結しない、その先の課題を用意しなければなりませんね。学校現場では、いまだにITツールに抵抗があったり、活用しきれていなかったりする先生方もいらっしゃると思います。今日は、そんな先生方に参考にしてもらいたいことをたくさん教えていただきました。私自身も、自分の授業でツール活用しきれていないところもありますので、大変勉強になりました。ありがとうございました。