教育トーク : 「英語教育の開拓者に訊く」シリーズ 第1回 AI時代の到来が外国語教育に与える影響(前編)
最終更新日:2023年1月27日
プロフィール
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学習院大学 文学部 英語英米文化学科 教授 冨田 祐一
・略歴 学歴: 早稲田大学(教育学部)卒業、上越教育大学大学院修了 職歴: 都立高校英語教師(9年)、福島大学教育学部助教授(11年)、大東文化大学環境創造学部教授(11年)、マンチェスター大学(英国)講師(2年)、ナザルバエフ大学(カザフスタン)講師(2年)、学習院大学文学部教授(7年) ・英語教育に関する取り組み 1991年: 『NHKテレビのえいごリアン』の番組編成委員として「国際理解の一環としての小学校英語活動」のための番組作りにかかわった。 1995年:福島大学にて、日本で初めて「ディスレクシアの子供たち」の英語教育相談室を開設した。 1996年日本で初めて「インターネットと英語教育」に関する論文を発表した。 2005年『NHKのラジオ基礎英語1』の講師として、日本で初めて「国際語としての英語」を導入した。 ・趣味や特技 両親がアイススケートのコーチだったことがあって、小学生の頃まではスピードスケートを専門的にやっていました。中学校と高校ではバスケットボールとテニス部に所属していました。現在の趣味は水彩画で、外に出て景色を描くことが好きです。最近はケーキ作りに凝っていて、機会があれば家族や職場の同僚にケーキを楽しんでもらっています。 ・最近の関心事 関心をもっていることはたくさんありますが、「英語教育に関する事」としては、2つあります。 1つ目は、英語は「勉強するもの」ではなく「使うもの」であると考える「21世紀型の英語教育」です。最近のテクノロジーの発達に強い関心をもっていて、ICTを有効活用することで、「『英語は勉強する対象ではなく使う道具なのだ』と学習者が実感できる英語教育」の方法を、日々考えています。 2つ目は「英語教育学の若い研究者を育成すること」です。ゼミでは「しっかりした調査方法を身につけ、調査結果から得られるデータに基づいて、説得力のある議論ができる学生」を育てるための様々な活動を行っています。
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こども教育宝仙大学・青山学院大学 五十嵐美加
2007年~和歌山信愛中学校・高等学校、2012年~慶應義塾大学社会学研究科修士課程、2014年~東京大学大学院教育学研究科博士課程、2020年~東洋英和女学院大学教職・実習センターを経て、現在、こども教育宝仙大学(実践英語担当)、青山学院大学(心理学応用演習担当)兼任。 修士課程在学中、英国オックスフォード大学への留学経験有り。
AIの発達により、翻訳アプリの機能や翻訳サイトのサービスが随分向上してきています。AI時代が到来し、世間では外国語学習の必要性に疑問を持つ声もよく聞かれます。
実際、英語がほとんどできなくても、翻訳ソフトを駆使して、海外との取引によって事業を成功させている人もいます。このような時代にあって、英語教師の役割や英語学習の様相も随分と変化しつつあります。AI技術の発展によって外国語教育はいかに変化してきたのでしょうか。そして、今後どのような在り方が求められるのでしょうか。
今回は、「AI時代の到来が外国語教育に与える影響」について、学習院大学文学部英語英米文化学科の冨田祐一教授にお話を伺いました。冨田教授はかつて英語教員として都立高校に勤務されたご経験もあり、長く英語教員養成にも携わっていらっしゃる先生です。
より良い方法の模索のため、新しいものにトライしてみる
(五十嵐)近年AIがかなり進化してきています。外国語教育の中でこういったAIを有効に活用していくために必要なことというのはどのようなことでしょうか。
(冨田)新しい機器や道具を使うことに関しては、私はこれまで積極的にやってきましたし、これからもどんどん使っていこうと考えています。なぜなら、教師とは常に「より良い教育実践」のあり方を模索し続けるべき職業だと考えているからです。過去の自分のやり方を何年も「ただ継続しているだけの教師」にはなりたくないですね。
もちろん従来の教え方を繰り返すことにまったく意味がないとは言いませんが、日々刻々変化し続ける現代社会にあっては、「もっとこうすれば良くなるかもしれない」と思って「試行錯誤」を繰り返す教師が求められているのではないでしょうか。
そうしたことが私の基本的な考え方なので、基本的には、何か新しいテクノロジー、新しい指導方法、研究方法などが目の前に現れてきたときには、怖がらずに、まずはトライすることにしています。
慣れてきた頃にこそ自分の指導について振り返るべき
(冨田)教師の仕事としての教育実践については、ある方法を繰り返し使っていくと、徐々にその効果に関する「見通し」や「見込み」ができるようになるし、慣れてくればどんどん教え方が上達することは間違いのないことですが、大体何年ぐらいで「自信がもてる領域」に入れるかというと、10年ぐらいではないかと思っています。
学校によって差はありますが、1人の教師が1週間に担当する授業は15~18時間くらいですので、1年で約500時間の授業を担当することになります。教師の指導技術とは、そうした教育実践を積み上げることで磨かれるので、その約500時間の授業実践を経験すると、一通りの必要な指導技術が身につきます。
次に、徐々に自信がついてきて、やる気が高まっていく段階が来るのですが、それが大体4~5年目だと思います。どうしてかと言うと、教師が最初に担任を任されるクラスの生徒たちが中学校や高校を卒業するのに3年かかるからです。
この「4~5年が終わった頃」になると、教師は、生徒たちが「3年間の学校教育を終えると、こう育っていくんだ!」ということが見えるようになるからです。そして、1つの学年の担任を3年間終えたとき、教師の指導技術のレベルがワンランク上がります。
どんな教師でも、失敗を含めた様々な教育実践を4~5年やると、「こういう生徒に、こういう教育をすれば、こう育って行くんだ」という、いわば「入口と出口」の姿が見えるようになるため、1年目の4月に、担当するクラスの児童・生徒に出会った時に、どのような教育実践をどうすれば、どのような成果が出るかについて、ある程度の予測できるようになります。そして、このサイクルを2〜3回繰り返した頃の10年目ぐらいには、かなりの自信がもてるようになります。
その10年の約5,000時間という年数は、飛行機の操縦士の経験年数と似たところがあるように思います。たとえば飛行機のパイロットは、副操縦士からキャプテンになるのに10年ほどかかるそうですからね。
つまり教師にとって「教育実践の経験」はものすごく大切です。いくら教授法の本を読んだとしても、現場で役立つ教育方法は、良くわからないですからね。たとえば、日本の教育実習では、実習生が授業を担当するのは、せいぜい3〜7時間ぐらいですので、そのような短時間の教育実践の体験だけでは、ほんの「さわり」程度の経験しか味わうことができません。
(注) ちなみに、イギリスの教員養成のシステムは日本と少し違っていて、教育実習生は、1年間学校に通って教育実習を行います。そのため、日本の教育実習生とは比較にならないほどの教育実践を経験することができます。
そのようなわけで、教師にとって、教育実践の経験はすごく重要なわけですが、一方で、その「経験」だけに頼ってしまうと、「落とし穴」が生まれるので、注意する必要があります。教師にとって「教育実践の経験」と同じくらい重要なことに、教育実践の中で「常に自分の教え方や考え方」をチェックして、「リフレクティブかつ批判的に、自分の教え方を見直すこと」が大切だからです。つまり、「教育実践による自信」と「教育実践を振り返る姿勢」の二つが、教師の指導力の基礎になる非常に重要なファクターになります。
そして、「自分の授業を振り返る時」には、自分が教育実践で用いている「授業案」や「指導法」だけでなく、当然のことながら「教育的ツール」にも注意を払うべきでしょう。もしも、より有効な教育ツールに出会ったら、その新しい教育的ツールを「ためしてみよう」という積極的な姿勢をもつことが大切です。そうした前向きな姿勢をもつことによって、そこから先の自分の指導力がぐんと伸びて行くからです。
今の時代、機械翻訳を使うことも外国語学習の一環
(冨田)例えば、私が担当しているReading の授業では、学生全員にGoogleに登録してもらって、授業のマネジメントをGoogle Classroomで行っています。課題の制作ではGoogle Docを使います。課題は、できるだけ「数人(3~5人)のグループ」で協力して取り組んでもらうことにしているのですが、仲間と一緒に一つの課題をシェアして、協働作業を進めるためにはGoogle Docが非常に便利です。
学生はWebページ上のニュースにアクセスして、「(自分たちが)一番興味深いと思う記事」をさがして、それを「授業で読む教材」として、自分たちで作り直していきます。自分たちが選んで、自分たちが教材化した記事を読んだ後は、意味がよく分からない箇所を、Google TranslateやDeepL を使って、自分の日本語訳の適格性をチェックします。
翻訳ソフトを使うと、時々妙な日本語訳になってしまうこともあるので、どの英語とどの日本語が対応しているかを丁寧に確認しながら、おかしな日本語があったら自分たちで修正していきます。そして、その作業を行う時には、自分たちが重要だと思う「単語」「句」「文」をリストアップして、表を作ることも大切な作業です。
(注) 定期試験では学生が作った「重要な単語、句、文」のリストから試験問題を作ります。
このような活動を通じて、理解を深めた「英語の記事」と「日本語訳された記事」が、私の授業のReading の教材になるわけですが、次は、その記事を使って、グループ・ディスカッションの活動に進みます。学生たちは、記事の内容について、グループで話し合ってから、(グループのメンバー以外の)他の学生を対象にした(記事に関する)アンケート調査を行います。アンケート調査はGoogle Formで行い、その調査結果はGoogle Slidesでまとめます。
そして、最後には、Google Slidesに音声をつけて、YouTube上にアップロードします。これが現在行っている私のReading の授業のプロセスです。
このような方法を採用している一番の理由は、このような「英文を読むプロセス」が、大学生が日常生活の中で「英語を読むプロセス」とほぼ同じだからです。一方、従来の大学の英語教育のReading の授業では「教師が決めた教科書を読んで日本語訳する」という形式で進められることがほとんどだったわけですが、そういう「従来の授業における英語を読むプロセス」は、現在の学生が現実の生活の中で英語を読むプロセスとは、かけ離れています。つまり「学生にとってのリアリティ」が感じられない授業形式だったわけです。
私の授業では、学生たちに、できるだけ「現実の世界で英語を読むプロセス」に近い形で英語を読んでもらうわけですが、さらにもう1点、私が強調していることは、決して「読み終わったら終わり」にはしないという点です。
例えば、「ウクライナにヨーロッパの国々や米国が、今後も武器を輸出すべきか?」といった問題については、学生の間から、多様な意見が出てくるのですが、「英語を読むこと」をきっかけとして、そうした(判断が分かれる)難しい問題について、仲間の学生と話し合うことによって、「どうするのが一番良いか?」に関する自分たちの答えを見つけ出して行ってほしいわけです。そういうプロセスこそが「英語を読むこと」の「本質的に重要な教育的意味」だと考えているからです。
このような授業の場合、とかく「新しいツールとしてのICT」だけに注目が集まりがちですが、「新しいツールを使うこと」自体が「目的」ということではありません。「英語を読むことによる思考プロセスによって学生が成長すること」が目的なのであって、ICTは、あくまでもその目的を達成するための「道具」であり「手段」でしかありません。
大学生にとって価値ある「教育的な目的」を達成するために「新しいツール」を使っているだけです。その目的を達成するために、ICTが役立つのであれば、ICTは有効な道具ですが、役立たないのなら、有効な道具とはみなせません。
コロナ禍によるICTの発達は「日本の教育の改善」に貢献したのだろうか?
(冨田)私はコロナ禍が始まった頃、教務委員をしていたのですが、当初は、大学の同僚の先生方の多くから「授業ができない!」「どうしよう?」という相談を受けました。私は、ICTにある程度精通していたし、Zoomについてもコロナ禍の前から使っていたため、そうした不安をかかえている先生方にZoom の使い方などに関するサポートをしたりもしました。
コロナ禍による「授業の急激なオンライン化」は、大学教育に強烈なインパクトを与えたため、当初は、多くの先生方が「オンライン授業」を敬遠していたのですが、2年あまりが経過した今では、当時の混乱は見られなくなり、ほぼすべての先生方が、何の問題もなくオンライン授業を行っています。したがって、いろいろな問題はあったものの、ICT教育の視点から見ると、コロナ禍による「授業のオンライン化」は、日本の教育に恩恵をもたらしたと言えるでしょう。
ただ、ここで見逃してはならないことは、コロナ禍でもたらされたICT化は「本当に日本の教育を改善したのだろうか?」という点です。「ツール面の変化」だけに注目して、「ICTの進歩によって、日本の教育は改善された」などとは、軽々に言えないからです。
コロナ禍が、少し落ち着いてきた今だからこそ、前よりもICTを使えるようになったことで、「日本の教育は改善されたのか?」を、きちんと検討した上で、これからの ‘After Covid Era’の教育を考えていく必要があるでしょう。私は、これからは、むしろ、そちらのほうの議論に力を入れるべきだと考えています。
新しいツールを使うなら、新しい教育的な付加価値が生まれるべき
(冨田)例えば、ある教師が、100人の学生を相手にしたZoomによる授業をしているとします。確かに、そうした授業は、一見「新しい授業」のように見えるのですが、もしもその100人の学生が、ただZoom から流れてくる教師の音声を聞いて90分の授業が終わるのだとすれば、以前の大教室の「講義」と「ほぼ同じ講義」が行われていることになります。
最新のテクノロジーのZoomという機器を使ってはいるけれど、やっている授業は「100年前の講義」とほぼ同じじゃないですか。もちろん講義が全部悪いなどとは言いませんが、新しいツールを使うのであれば、そこには何か「新しい教育的な付加価値」が加えられるべきだと思うんです。
現在でも、多くの大学では、100人以上のクラスをZoomでやることが多いようですが、そういう授業形式って、極論かもしれませんが、先生たちが楽をするためにZoom を使っているように思えてしまうのですが、いかがですか?1回だけ講義ノートを作ったら、あとは、それをしゃべればいいわけで、教師にとっては、すごく簡単な方法です。
さらに「オンデマンド型+配信型の授業」なら、1回動画を作っておいてそれを流せばいいわけですから、非常に簡単で、非常に楽です。でも、それって、ちょっとおかしいんじゃない?と思ってしまうんですよね。そういう授業なら、わざわざ講義時間を固定する必要はないわけですから、You-tube 上に講義を録画した動画をアップロードしておけば充分です。
こういうあまり生産的な意味がないテクノロジーの使い方をしていたのでは、「ICTの発達によって大学の授業が改善された」などとは、とても言えないんじゃないでしょうか。少々きつい言い方になるかもしれませんが、新しいツールが「教師が手抜きするための道具」として使われているだけですからね。
たとえば、さっき私が言ったような、Google Form を使って学生の判断、選択、意見、等をとり入れた授業方法は、まだまだ未完成なので、改善の余地はたくさんあるものの、少なくとも、新しいテクノロジーを使って「今までにできなかったこと」をやろうとしているし、そういう意味ではテクノロジーを有効活用しようとしている方法の一例だと言えると思います。
Google Docを使って参加者が同じテキストをシェアし、他者と協働して一つの課題に取り組む、といった活動も、従来の「紙で作ったハンドアウト」をシェアしていた方法と比べると、よりダイナミックな「協働作業」を提供していると思います。
VUCA※の時代を生き抜くために
※V(Volatility:変動性)U(Uncertainty:不確実性)C(Complexity:複雑性)A(Ambiguity:曖昧性)の頭文字をとったもの
(冨田)数日後に行う私の講演のテーマは「VUCA」です。VUCAというのは、元々戦争の戦略を研究する時に使われていたらしいですが、今では経済界でも広く使われていて、最近は教育の世界でも使われはじめています。
簡単に言えば、これからの時代は、予測不可能なことが起こるので、「従来の知識」が使えなくなる、ということを意味しています。従来は、それまでに蓄積されていた情報やデータを基に、将来の変化や動向を予測することができたのですが、これからの時代は、ものすごい勢いで予測不能な事態や状態が起こるため、それまでの古い知識が通用しなくなる、ということですね。こうしたことは、現代社会の全体がかかえる問題なので、当然のことながら、教育の世界でも、そういうVUCAの時代に生きる子どもを育てる哲学や方法を考え直す必要があることになります。
VUCAの時代に生きる子どもたちにとって「一番大切なことは何か?」に対する答えは簡単には出せませんが、あえてまとめるとすれば、「誰かに与えられた知識を受け取って従うだけの子」ではなくて、「自分の頭で考え」「自分から進んで知らないことを調べ」「自分で進むべき方向性を選択し」「自分で新しい知識を創造する」子どもたちを育成すること、ということになるのではないでしょうか。そして、そういう力をもった子どもが「21世紀のVUCAの時代を生き抜く子ども」ということになると考えています。
新しい教育用機器やテクノロジーの有効な使い方について考えたり論じたりする時にも、当然のことながら、そういう「予測不可能な社会を生き抜く子ども」を頭の中に置いた上で、教育の内容や方法を模索していく必要があるということが、今、私が一番考えていることです。旧態依然とした「知識供給型」の教育を目的とした「新しいツール」の利用っていうのは、まさに、そうした考え方とは真逆の考え方に基づくものです。そこに気づく必要があると思うわけです。
「新しい機器を使っていれば全てOK」というものではなく、「新しい機器」を使うことによってかにして「VUCAの時代に生きる子どもたち」を育成できるか?が重要です。そうした教育を構築するための哲学や方法論を、どうやったら築けるか?が、今、強く求められていると思いますね。
2020年代に存在する仕事が20年後の2040年代にいったいどのくらい存在するかを予測することはほとんど不可能です。間違いなく、これからどんどんと新しい仕事が生まれ、古い仕事はどんどん少なくなっていくに違いありません。そうした、まさに「VUCAの時代」を生きぬくためには、「自分で考えて行動する力」が間違いなく重要です。そこが今の教育関係者が考えるべき大事なポイントだと思います。そして、そういう視点に立った教育のあり方に関する研究や実践については、まだまだ日本は後進国だと思います。
例えば、IB(インターナショナルバカロレア)の教育が重視していることは、自分で考えて、自分で調べて、自分で知識を構築することですよね。その目的のために、学習者には自分でリサーチすることや、調べたことに関する大量のエッセイを書くタスクが課せられます。IBの教育で、なぜそうしたことを重視しているかといえば、これからの時代を生きぬくには、そういう力が必要不可欠だという信念が根本にあるからにほかなりません。そこには、20世紀型の教育観からの一種のパラダイム転換が見てとれます。
しかしながら、残念なことに、日本の教育の場では、まだそうした「パラダイム転換」がほとんど進んでいませんね。「教師が古い知識を供給して、学習者がその知識を受け取る」という、一方向的な知識供給型の教育が根強く残っています。そこが日本の教育が抱えている非常に大きな問題だと思います。
むしろ先生方に主体的で対話的で深い学びの機会を
(五十嵐)昨今、主体的で対話的な深い学びが重要だと言われています。私自身も主体的、自主的に自分で情報を取りに行って、自分で考えて、クリエイトして発表していくことが必要だと思います。
ただ、今の小学校や中学校で「子どもたちに主体性を」という活動として先生たちが主体的に動こうとすると、上司の方に抑えられたり、何か新しいことをやろう、アップデートしようとなったときに、古い考え方の先生や管理職がいらっしゃったりして動きづらいというお悩みをよく聞きます。制約の中でも何とかしていくバイタリティが必要だと思うんですけれども、どんどんブラック化している環境の中で、良くしていこう、アップデートしていこうという先生たちの主体性が失われて、そこでつまずいてしまう先生方もいらっしゃる印象があります。そんなジレンマを抱えていらっしゃる先生に対して、ご助言いただけませんか。
(冨田)今おっしゃったようなことを、私も現場の先生方から聞くことが多いですね。先生たちも、今の時代に合った教育を、何とか進めて行かなければ、と思っているのですが、残念ながら、現在の教育現場の労働環境は、まさにブラックで、本当に忙しいですよね。
私が以前暮らしていたイギリスの学校などでは、午後の3時ぐらいになると、先生方はみなさん帰宅されていました。そういう余裕のある状況で生活している先生方には、帰宅後に「ふーっと息を抜く余裕」があり、「考える時間」があるわけで、結果として「あの授業は上手くできたかな?」とか「どうやればもっと良くなるかな?」といったことを考えるための「スペース」が確保されています。そういう「考えるスペース」というのは、本当に先生方にとって重要です。
今の日本の学校の先生方には、そうした「考えるスペース」があまりにも少ないですね。これは大問題で、先生たちの責任ではないので、学校関係者だけでなく、全ての日本人がこの学校の状況を理解して、現場の先生たちに「考えるスペース」をもっとたくさんもっていただけるように働きかけなければ、日本の教育はどんどん先細っていくと思います。
ブラック化を食い止めるための仲間づくり
(冨田)意識の高い先生はたくさんいらっしゃいます。限られた時間の中で、なんとか時間を作って、児童や生徒たちの作品や課題に必死になってコメントを書いている先生がたくさんいらっしゃいますよね。だから先生方に責任があるのではなく、先生方を取り巻く労働環境に問題があることは明らかです。先生方にとって、「考えるスペース」は、教育を改善するために、絶対に欠くことができないものだと思うので、この問題は本当に重大です。
この問題はなかなか根が深い問題なので、すぐに解決する方法はないかもしれないのですが、日本社会に生きる全ての人々が真剣に考えて、先生方の働く環境を少しでも改善できるよう、地道に訴える続ける必要があると思います。そして、先生方についても、そういう声を遠慮せずに世の中に伝えていただいた方がいいと思います。
(五十嵐)諦めず声を上げることが大切ということですか。
(冨田)はい、そう思います。現在の労働環境をすぐに改善する妙案はすぐには見つからないと思いますが、まずは「先生方の声」が、すごく大事だと思います。
(五十嵐)1人で立ち向かっていくのは難しいし精神的にもしんどいと思うので、原動力になる仲間を集めることも大事かと思います。
先日、中学校の校長先生にインタビューさせていただいたのですが、忙しい中でも仲間作りのためにいろんなところに出て、学校内だけで終わるのではなくて、いろんな仲間を作ってどんどん声を上げていくことが大事だし、新しい発想もそこからもらえるかもしれないという話をお伺いしました。
(冨田)それは、すごく大事なポイントですね。日本の学校教育の極めて重要で素晴らしい特徴の一つは「先生方たちのコミュニティのパワー」だと思います。そこから生まれる「相互理解」と「協調関係」には、非常に素晴らしいものがあると思います。
例えば、日本の学校では、他の先生の授業を参観して、お互いの授業について意見を述べ合う、というようなことが行われていますね。授業が終わった後に、先生方がお集りになって、お互いの授業について話し合いをする「授業研究」が、頻繁に行われています。つまり、日本の学校の中には、そうした相互理解や協調関係を支える教師集団のコミュニティが存在するわけで、それって本当に素晴らしいことだと思います。
私は、今、世界的に注目されている Wenger (1998) の Communities of Practice が言うところの「コミュニティに基盤とする実践」が、最も具現化されているのは、日本の学校における先生方のコミュニティだとさえ思っています。
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そうした「学校内の先生方のコミュニティ」というのは、海外の学校ではあまり存在しないのではないでしょうか。少なくとも私が訪問したことがあるイギリスやアメリカの学校では、日本の学校に見られる先生方の「相互理解」や「意見交換」を促進する場は、日本の学校ほど確保されていないように思います。極めて忙しい中にもかかわらず、日本の先生方が、何とかしてお互いの意見を交換し合い、協力し合おうとする「コミュニティ」を維持しておられるという点は、本当に素晴らしいことだと思います。
そういった先生方のコミュニティの場で、自由に意見を交わすことにはすごく大きな意味があると思います。校長先生が「こうやりなさい。」と言うことを、トップダウン式に、だまって聞いて行動するのではなく、先生方が自分たちで「どうやろうか」と考えた上で、ボトムアップ式に、自らの教育活動を選択するということは、非常に素晴らしいことだし、まさに「児童や生徒のお手本」になる行動だと言えると思います。
(中編に続く…)